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(4)漁業無線局
1958(昭和33)年3月発行の拓水19号によれば、漁業で無線が初めて使用されたのは、1912(明治45)年に農林省漁業指導船「速島丸」、海岸局では1921(大正10)年静岡県清水無線電信局であったと記載されている。
兵庫県の無線開始についても、同じ記事の中で以下のようにふれられている。すなわち、1932(昭和7)年、兵庫県水産試験場指導船「但馬丸」がソ連沿海州公海漁場を発見したことで、翌年から但馬の機船底曳網漁船の沿海州出漁が始まった。好成績をあげたものの、往復1,000海里にも及ぶ漁場と操業範囲の拡大によって、陸船間の連絡、情報の交換等に無線施設の必要性が痛感された。そのため香住、口佐津(柴山港)、竹野、港(津居山港)の4漁業組合が共同して「但馬漁業無線運営組合」を設立、水産試験場但馬分場内に香住漁業無線局を開設し、1935(昭和10)年に運用を開始した。
香住漁業無線局のその後の変遷については、兵庫県漁業協同組合連合会編(2006)『30年のあゆみ(付録DVD資料)』(同会)によれば、1942(昭和17)年3月・組合立香住漁業無線電信電話局が兵庫県へ移管、1948(昭和23)年4月1日・香住漁業無線電信電話局が兵庫県から農林省へ移管、1951(昭和26)年12月1日・香住漁業無線局に漁業用海岸局を開設(国と但馬漁連の二重免許認可)、1964(昭和39)年11月1日・香住漁業無線局が国から兵庫県へ移管(兵庫県と但馬漁連の二重免許により開局)、1987(昭和62)年12月・新香住漁業無線局発足(漁業用無線施設等整備事業完了)とある。
一方、漁船では、電信・電話の無線設備を併設した船舶が、1936(昭和11)年には15隻に達した。その後1944(昭和19)年には28隻となったが、戦争への徴用によって、1945(昭和20)年の終戦時には14隻に減少した。その後も、保守機材の入手難やインフレ経済下の影響で廃止する船が相次ぎ、1951(昭和26)年には、わずか5隻を残すのみとなった。しかしながら、同年10月のルース台風(※1)により、香住町漁協所属の機船底曳網漁船伸生丸が転覆し、8名の犠牲者を出した事故が契機となって、再び無線機装着の機運が高まり、さらに県が海難防止・漁獲向上の観点から補助金を用意したことで、無線設備は急激に普及した。その結果、1957(昭和32)年度末の但馬地区の船舶局は83隻に達した。
神戸漁業無線局は、1982(昭和57)年4月に開局した。当時兵庫県の内海地区には10海岸局・1400船舶局があったが、海岸局の運用は昼間に限られ、夜間の聴取は行われていなかった。そこで、夜間操業の900隻の安全操業を確保するために、県漁連が県立水産会館内に無線局を設置した。神戸漁業無線局の夜間聴取は、特殊無線技士甲の資格を取得した県漁連職員が、交替で業務に当たった。
無線局が整備されるまでの間、兵庫県の内海地区では違法無線機の使用が横行したため、たびたび近畿電波監理局から注意を受け、県漁連が中心となって、特殊無線技士(無線電話甲)の養成講習会を各地で開催したほか、電波監理局員を招いて、電波法の周知研修会を開催するなど、無線使用の正常化がすすめられた。
2002(平成14)年9月には、神戸漁業無線局の委託を受け、香住漁業無線局において、神戸漁業無線局の業務を遠隔操作で行うことになった。
(※1)拓水19号には伸生丸の転覆事故が、1951(昭和26)年10月のジェーン台風によるものと記載されているが、松本卓三(1978)『香住町漁業協同組合史上巻』(同組合)によると、伸生丸は1951(昭和26)年10月16日、漁場においてルース台風に遭遇して船体大破との記述がある。また、ジェーン台風はルース台風の前年の9月に日本に上陸している。このため、伸生丸の転覆事故はルース台風によるものとして訂正した。