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(10)婦人部・青壮年部・漁業士

1955(昭和30)年の春、県当局が、漁村の生活改善と漁協の発展のために、漁協婦人部の設立を呼びかけた。淡路地区では、1956(昭和31)年5月までに、16の漁協で婦人部が誕生した。これらの漁協婦人部では、一日10円貯金や日用品の共同購入など、これまで掛け声だけに終わっていたことを次々と実現し、素晴らしい成果をあげた。さらに、個々の漁協婦人部活動から一歩進んで、他の漁協婦人部と共に活動する動きが出てきた。このような連合活動を支援したのは淡路水交会連合会であった。1956(昭和31)年2月、淡路漁協婦人部連絡協議会が、灘生活協同組合の婦人部長を講師に招いて講話会を開催し、同時に「淡路地区漁協婦人部協議会」の結成を目指すことを決定した。同年5月27日洲本市において、島内漁協婦人部の代表者に加え、漁協組合長、経営指導員のほか、県漁連、県農林出張所、洲本市連合婦人会などから来賓を迎え、淡路地区漁協婦人部連絡会の設立総会が開催された(拓水1号)。

兵庫県下の漁協婦人部の数が、1956(昭和31)年9月末時点で、30余りとなった。そこで、県漁連では、漁協婦人の地位の向上と相互の連絡強化を図るため、漁協婦人部の連絡協議会を開催することを決定した。1956(昭和31)年10月、県立水産会館において、第1回漁協婦人部大会が開催されている(拓水3号)。

第1回兵庫県漁協婦人部大会
▲第1回兵庫県漁協婦人部大会

1957(昭和32)年10月に開催された、第2回兵庫県漁協婦人部大会において、全漁連から招いた講師が「婦人部と漁業協同組合」と題した講演を行い、漁協婦人部運動について説明した。漁村に婦人部運動が誕生したのは、1909(明治42)年の茨城県前渡村まえわたりむらが最初であったという。これによると、村ではある非識字者の婦人が家庭の中心となって、仕事を行っていた。このことに、村人が感激して「矯風(※1)会(きょうふうかい)」という組織を設立、次に矯風貯蓄会を結成し、前渡村の1村300戸全員がこの会に加入した。これを見た青年部は青年会を設立、隣村にも矯風会が誕生した。当時の貯蓄は1銭、2銭とわずかな金額であったが、前渡村に船だまりを作るとき、国・県の補助金に加えて、矯風会が2,000円を寄付した。以上が文献(岡山県水産会会報第18号)に登場した最初の婦人部運動である。その後、兵庫県では1924(大正13)年11月に開催された漁業組合大会で「家族会を設立し、家族生活、趣味の向上をはかること」を決議している(1924(大正13)年福井県水産会報12月号より)。家族会とは、当時の婦人部の仕事を担うものであった。大正期に家族会の設立を決議した兵庫の漁村の人々は先進的であったといわれている。

戦後の婦人部運動は民主的・自発的に誕生した。北海道の離島では、島で生まれ、島から一歩も出ずに一生を終える人が多かった。そこで電車も汽車も見たことがない老人を、都会に連れて行くための旅行貯金の積み立てが、婦人部運動の始まりであったという。全漁連では、こうした活動を1950(昭和25)年から正式な婦人部運動として認識した。全国の漁協婦人部の設立状況は、1954(昭和29)年3月末で238婦人部・39,000部員、1956(昭和31)年3月末で470婦人部・94,000部員、1957(昭和32)年3月末で625婦人部・117,000部員へと増加した。ちなみに農協婦人部員は、1957(昭和32)年3月末で約130,000人であった。漁協婦人部の仕事は、①収入を増やすこと、②無駄な費用をなくすこと、③漁業の安定を図るために力を合わせること、④漁協に本来の仕事をまじめに行ってもらうようにすること、などであった。漁協と婦人部は、「一つの組合の中の役割で、別物ではない」、と講師は述べている。さらに、婦人部の仕事を段階的にみると、第1期は貯金、日用品の取扱い、第2期は新生活運動(料理講習会、家族計画、家計簿記入など)、第3期は連合会的な組織づくり、に分けることができた。1957(昭和32)年10月時点で、全国に14の連合会があったが、連合会結成によって、①県内の婦人部の横のつながりが便利になる、②他府県婦人部との連絡が密になる、③様々な事業(日用品の全県共同購入、講師の斡旋など)ができる、などが考えられた。講師は最後に、婦人部の力をもとに、漁村の力を政治的にも強くすることが婦人部の究極の目的で、これが婦人部と漁協の関係の結論になる、と結んでいる(拓水15号)。

播磨地区では婦人部連合会の準備が進められ、1959(昭和34)年7月、県立水産会館において播磨地区漁協婦人部連合会の設立総会が開催された。事務所は林崎漁協内に置かれた。これによって、県下4地区(神戸市・播磨・但馬・淡路)に地区連合会が設置されることになった。(拓水37号)。

兵庫県に漁協婦人部が発足したのは、県当局が全県に対して婦人部設立を呼びかける以前の1954(昭和29)年のことで、3漁村に(※2)婦人部が自主的に結成された。その後、県当局ならびに関係団体の指導によって、婦人部の活動は急速に進展し、1959(昭和34)年8月時点で、42の漁協婦人部が存在し、前述のとおり漁婦連も4地区に結成された。県漁婦連の結成については、1958年より検討中であったが、1959年(昭和34)年8月に各地区漁婦連の正副会長及び関係団体の担当者が協議したところ、県漁婦連結成で意見が一致した。そこで、同月26日に県立水産会館において関係者約100名が集まり、県漁婦連設立総会が開催された。なお、県漁婦連の事務所は県漁連(旧兵庫県漁連(制作委員会注))に置かれた。(拓水37号)

漁協婦人部は、かねてより海浜清掃に積極的に取り組んできたが、その功績が認められ、1977(昭和52)年度から各海区に海浜清掃の助成金が、県漁連から支給されることになった。この運動をより活発なものとするため、県漁婦連では、同年7月24日、県下一斉に海浜清掃を行うことを決めた(拓水250号)。

1983(昭和58)年3月、坊勢漁協青年部の設立総会が開催された。地元では、かねてより青年部の設立が叫ばれていたが、漁協の強い指導のもと、発足の運びとなった。青年部は35歳以下の若手漁業者で組織され、部員数は173名で、県下最大の青年部となった。

1983(昭和58)年7月、香住町漁協婦人部の設立30周年記念式典が、香住町漁協で開催された。同婦人部の設立は、戦後の混乱期がようやく過ぎた1953(昭和28)年9月であった。苦しい生活の中で、生活用品を何とか安く手に入れようと、漁協を仲立ちに共同購入を開始したことがきっかけとなった。この事業で生じた価格差分は貯金に回され、変動的な漁業収入に備えることになった。婦人部はその後30年、漁協と連帯した貯蓄推進運動や漁家生活の合理化を積極的に推進した。また、生活改善、健康管理、後継者の育成、合成洗剤の追放をはじめとした公害から海を守る運動など、幅広く活動した。以後の活動にも大きな期待が寄せられた(拓水323号)。

1986(昭和61)年6月、県漁青連の設立10周年記念行事が開催された。県漁青連では、記念誌「兵庫県漁青連の10年のあゆみ」を発刊、会員1,363名に配布した(拓水358号)。

1986(昭和61)年6月、淡路地区漁婦連が、設立30周年記念行事を開催した。淡路島ではこの30年間に、大鳴門橋が完成し、明石海峡大橋・関西新空港の建設と、大きな変貌期を迎えていた。振り返れば、1949(昭和24)年の水協法施行によって、漁業協同組合が設立され、漁協婦人部も次々と誕生した。当時は物がなく、生活にゆとりが持てない中、漁家の女性は内職探しに奔走するような日々を過ごしていた。その後経済成長が進むにつれ、漁協婦人部は多様な活動を開始した。淡路地区漁婦連では、各漁協婦人部からこのような思い出話を集め、設立30周年記念の「随筆集」にまとめた(拓水357号)。

第1回県漁青連ソフトボール大会
▲第1回県漁青連ソフトボール大会

1986(昭和61)年10月発行の拓水361号に掲載の「普及員だより」で、漁業士制度が紹介された。1986(昭和61)年度に、国の新しい漁業後継者対策事業の一環として、指導漁業士・青年漁業士の認定制度が設けられた。兵庫県でも、国の制度施行に伴い、この事業に取り組むことにした。制度の目的は、将来の新しい漁村づくりのための取組の推進役、中核となる若い優れた漁業者を育成することであった。青年漁業士の認定要件は、①県が行う講座を履修するか同等以上の資質を有すると県知事が認めた者、②一定の漁業経験を有し、将来とも漁業に従事し地域の中核的推進者となることが見込まれる40歳未満の者、③漁業青少年の集団活動に積極的に参画し、中心的活動ができると見込まれる者、とされた。指導漁業士の認定要件は、①漁業技術、経営管理能力等が優れ、かつ地域自立経営型漁業者として先進的経営を行っている者、②漁村青少年の育成指導に積極的に参画し、かつ、理解と熱意を有する者、とされた。県ではこれらの認定に当たり、漁村青少年育成機関及び関連漁業団体の役職員ならびに学識経験者等で構成する認定委員会を設け、候補者の選考審査を実施することになった(拓水361号)。

1988(昭和63)年11月、明石市民会館において、昭和62年度兵庫県漁村青壮年婦人活動実績発表大会が開催された。漁青連と漁婦連の合同発表大会の開催は、10年ぶりとなった。互いの組織や活動内容を理解しあい、今後の活動に役立てるために実現したものであった。

兵庫県漁青連らが呼びかけていた、青壮年部の全国組織化への足掛かりとなる、西日本漁業青壮年部連合会の設立総会が、1988(昭和63)年2月、那覇市の沖縄県水産会館で開催された。これは、先細る沿岸漁業を若い後継者の手で振興し、将来像を確立していくことを目的とした取組であった。兵庫・山口・愛媛・長崎・佐賀玄海・鹿児島・沖縄の7県漁青連会長が発起人となり、京都以西の各県漁青連に設立を呼びかけていた。総会には、兵庫・岡山・山口・徳島・愛媛・高知・福岡・佐賀有明・佐賀玄海・長崎・宮崎・鹿児島の12漁青連から52名が参加し、種々意見交換をした結果、設立を決定するにいたった(拓水377号)。

1988(昭和63)年9月、淡路地区漁婦連が「第3回魚を食べましょう」アイデア料理コンクールを開催し、14婦人部から27点の応募があった。このコンクールは、身近で安価な魚でも、工夫一つでおいしく食べられることを消費者に広くPRすることが目的であった。淡路地区漁婦連では、過去3年間に出品された64点のアイデア料理に関するパンフレットを作成する検討を始めた(拓水384号)。

1989(平成1)年7月、南淡町沼島で沼島漁協青年部主催による、女性60余人と地元漁業青年の交歓会が開催された。沼島は人口1,000人足らずの離島であるが、主産業の漁業は活気に満ち、後継者も順調に育っていた。しかし、花嫁不足が深刻な問題になっていた。そこで、島外の女性に、沼島を知ってもらうことを目的に、交歓会が企画されたのである。この模様は後日、地元テレビ局が放映した(拓水394号)。

1990(平成2)年2月発行の拓水400号で、淡路地区漁婦連が、アイデア料理コンクールに出品されたレシピ63点を冊子にまとめた『海の幸あわじ』を出版したことが紹介された。同漁婦連では、この冊子が一人でも多くの消費者の手元に届くよう願い、各地の婦人団体等へ配布した。

1990(平成2)年3月、農山漁村婦人フェスティバルが開催された。これは、農山漁村婦人の社会活動への参加を促進し、地位向上を図るため設定された「農山漁村婦人の日(3月10日)」にあわせて、開催されたものである。席上、全国初となる兵庫県婦人漁業士の認定式が開催され、4名の部員がこれに認定された(拓水402号)。

 

(※1)悪い風習・風俗を改め正すこと。

(※2)2009(平成21)年5月発行の拓水631号の県女性連創立50周年記念座談会の中で、昭和29年に東須磨、浜坂、三尾の3漁協に婦人部が設立され、「1日10円貯金運動」が始まった、とある。一方、1956(昭和31)年11月発行の拓水4号に掲載された第1回兵庫県漁協婦人部大会の活動実績発表の要旨によれば、前述の3婦人部以外の複数の漁協婦人部で、昭和29年以前から別の組織名称で婦人部活動を行っていたことが記されている。

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