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(43)阪神淡路大震災

1995(平成7)年2月発行の拓水460号の「COLUMN」に遊方子氏の執筆による「兵庫県南部大震災」が掲載されている。

「暁の快い眠りの刻を、かつてない強い衝撃に襲われた。淡路から神戸へと連なる活断層が激しく動いたのである。強烈な破壊力だった。ビルが倒れ民家が崩れ、近代的な高速道路が横転した。電気も水もガスも途絶え、瞬時に廃墟と化し、五千四百余の生命が奪われ大勢の人が傷ついた。同時に出火した炎は、六千近い家屋を焼き尽くし、信じられぬ地獄絵が描き出された。誰も予想だにしない悪夢の夜明けであった。

ガレキの中を走る救急車の音を聞きながら歩いた。利便性に富んだ豊かな街が一瞬に壊滅し、目の前に終戦直後の爆撃跡が再現されている。都市の中心部の喪失は心臓の損傷に似て、手足の動きを封じられた状態である。あれから約1ヵ月、刻々と復旧への努力がなされている。遠い町からも援助の手が差し伸べられ、数々の物資が給付される。避難所の不便な生活を強いられながらも、温かい援助は萎える気持ちの支えとなり実に有り難い。

台風や落雷とともに地震は恐ろしい天災である。特に地震は予知が出来ず、人為的に防御するのも難しい。この大震災を教訓に、防災に優れた街を作らねばならない。災害に対する応急体制の強化も急務である。水や食料を運ぶプログラムも要る。警察・消防・自衛隊や地域の消防団の横の連携をもっと緊密にした総合的なマニュアルづくりも必要だろう。多大な犠牲を払ったのだから、それに見合ったモデル都市を作り出すことだ。突発する災害への迅速な対応には、連帯意識と相互協力が必須条件なのである」。

1995(平成7)年1月17日午前5時46分、兵庫県南部を震度7(マグニチュード7.2)の巨大地震が襲った。夜明けとともにその惨状を白日にさらした大都市には、あのきれいでオシャレな街、神戸の面影はどこにもなかった。崩れ落ちた高速道路、横倒しになったまま道路をふさぐ高層ビル、瓦礫と化した家屋。延焼を食い止めることもできず、一晩中燃え続けた下町。5,400名余りという未曽有の犠牲者の多くは、圧死によるつらい死だった。しかし、被災地での立ち直りには目を見張るものがあり、被災者同士の助け合いやボランティアをはじめとした多くの人々の善意に支えられ、春の訪れとともに、神戸の街には復興の槌音が響きわたった(拓水460号)。

明石海峡周辺の地域では、漁業関係者の被害も甚大で、多くの組合員・役職員の自宅が倒壊し、避難生活を強いられている関係者も少なくなかった。漁港および関連施設の崩壊も甚だしく、最盛期を迎えているノリ養殖漁業への壊滅的な打撃や、活・鮮魚流通がストップするなどの影響を受け、漁業活動を停止せざるを得ない地域もあった。この震災による漁業関連施設の被害(大阪府・徳島県を含む)は、1995年2月1日時点の水産庁の調査によると、189億6千万円に達した。内訳としては漁港施設が22港・157億円、共同利用施設が67ヵ所・21億円、漁船・漁具が60件・6千万円となった。

漁港被害:明石市
▲漁港被害:明石市

政府は同年1月24日、阪神・淡路大震災を「激甚災害に対処するための特例の財政援助に関する法律(激甚災害法)」を適用する災害に指定した。また、2月3日の閣議において、農林水産業被害についても激甚災害に指定された(拓水460号)。

兵庫県漁連・兵庫県信漁連・兵庫県漁業共済組合では、1995(平成7)年1月27日、明石市において緊急合同役員会を開催し、今後の震災対策について協議し、県漁連会長を本部長とする「兵庫県南部地震漁業災害対策本部」の設置を決め、関係漁協と系統団体が一丸となって震災復興対策にあたることになった(拓水460号)。

県立水産会館の被害
▲県立水産会館の被害

1995(平成7)年2月、被災地を訪れた農林水産大臣に対し、漁業災害対策本部のメンバー及び地元漁業者が、漁業の窮状を訴えた。同月、漁業災害対策本部メンバーが地元選出の自民党関係者を訪問して陳情活動を展開した。さらに、県知事をはじめとする県首脳と県議会関係者、五管本部・海上保安部関係者らにも強力な支援を求めた。続けて漁業災害対策本部の陳情団が上京し、国会関係者、大蔵省、水産庁、中央系統団体等に支援を求める活動を行った(拓水460号)。

1995(平成7)年3月発行の拓水461号には、全国の漁協系統組織をあげて支援活動を展開する全国漁業協同組合連合会の広報課長が、2日間にわたって被災地を取材してまとめた「震災による復興に向けて」と題したレポートが紹介された。それによると、1月17日地震発生時刻の午前5時46分、この時には出漁していた漁船も多く、最初の衝撃を船の上で受けたものの、スクリューに何かが巻き付いたと思って、衝撃の原因を確かめた人もいたという。漁をしていても落ち着かず、肝心の魚も獲れなかった。異変を感じて港に戻ると、岸壁は陥没し、付近の家は倒壊していた。しばらくの間、呆然とその光景を眺めていた人もあった。沖にいた漁業者は、下から突き上げるような衝撃と激しい揺れに驚いた。揺れが治まった後もあたりは真っ暗だった。早朝からのり加工場で働いていた人たちは、外に出ようとしたが場内が停電していて身動きが取れない状態であった。震源地となった北淡町の被害はそれぞれの漁協によってさまざまだが、1月はほとんどの漁協が、最盛期を迎えているノリの生産を断念せざるを得ない状況で、漁港・関連施設等の復旧作業や倒壊した家の片づけに追われていた、とある。この後のレポートには、全漁連の広報課長が、被害が大きかった北淡町・明石市・神戸市の各漁協と県漁連を訪問して、組合長や役職員から聞いたインタビュー記事がある。

1995(平成7)年5月発行の拓水463号に、漁業災害対策本部代表の県漁連会長名で、被災した漁業関係者に対して全国から寄せられた支援(救援物資や義援金など)に対するお礼のことばが掲載された。義援金総額は3億2千万円余に達し、同年5月2日に関係被災者に贈られた。

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