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(1)県外出漁
明治時代後半から大正時代にかけて、冬の漁閑期に、内海地区から朝鮮近海への出漁(鮮海通漁(せんかいつうぎょ))が行われたことは既報のとおりであるが、朝鮮近海への出漁は朝鮮との国交がない明治初期から行われていた。当時、日本漁船と地元漁船との間に漁場をめぐるトラブルが頻発していたことから、1890(明治23)年に「日本朝鮮両国通漁規則」が制定され、その結果日本全国から700隻を超える漁船が出漁した。日本が韓国を併合した1910(明治43)年の出漁漁船数は4,000隻にのぼった。
また、1932(昭和7)年に県水産試験場指導船「但馬丸」がソ連沿海州公海漁場を発見したことを機に、但馬の底曳網漁船が、翌1933(昭和8)年から1940(昭和15)年までこの漁場に出漁した。
1959(昭和34)年5月発行の拓水33号から連載された、津名町佐野出身の平岡安民氏が執筆した「漁業今昔」によれば、同氏は1927(昭和2)年の第1回朝鮮出漁に参加し、兄弟ほか4人で現地に住み込んで漁業を営んだ。
1年後にいったん帰国したが後に再び訪朝し、現地の水産会社が営むイワシまき網漁船に乗り組み漁労長等を務め、終戦直前までの約20年間を朝鮮半島で過ごした。戦後は地元淡路で漁業を営んだが、漁果はたいしてなかったとある。
1957(昭和32)年7月発行の拓水第11号から連載された、平岡安民氏の「対馬暖流」(※1)によれば、1952(昭和27)年に朝鮮時代の知り合いを頼って、対馬で4ヵ月間の試験操業を実施した。対馬に手ごたえを感じたが、定住操業のための資金のめどが立たなかった。ところが、平岡氏の企画が県当局に伝わり、県による調査の結果、対馬への出漁を県が支援することが決まり、同年10月20日、県の補助金を得て、平岡氏らを含む計26隻の漁船が、淡路島岩屋港から対馬に向けて一斉に出港した。
1954(昭和29)年9月には、兵庫県県外出漁協会が設立された。県は1955(昭和30)年、同協会に摂津播磨・但馬を加えて全県組織に広げたが、1958(昭和33)年以降は瀬戸内側からの参加者は皆無となった。
但馬では、東シナ海方面でのサバはね釣漁業の好況に刺激されて、中型底曳網漁業者の出漁機運が高まると、1959(昭和34)年1月に漁業の転換対策として、県と系統団体が「兵庫県漁業株式会社」を設立、同年7月にサバはね釣漁船「第一兵庫丸」を建造して東シナ海に出漁した。しかしその後、諸外国の規制による漁場の制約と魚価の低迷によって経営は厳しくなり、「第一兵庫丸」は1965(昭和40)年に県水産試験場の調査船として傭船されることになり、会社は1967(昭和42)年に解散した(解散時の社名は「兵庫県漁業公社」)。
県外出漁は、1963(昭和38)年6月時点で対馬に定住した数人を除いて、長期の出漁はなく、但馬地区からの季節的出漁が継続されるのみとなった。
対馬に定住した平岡安民氏は、1963(昭和38)年にディーゼル45馬力12.70tの漁船で、長男と甥の3人で建網・流網・イカ釣を行い、家族全員でスルメの自家加工に従事した。また、次男には大分県に購入した果樹園の経営にあたらせたという。
戦後の日本の漁業は、沿岸から沖合、沖合から遠洋へと漁場の拡大を図ってきた。本県でも県外出漁が奨励されてきたが、漁場の制約と魚価の低迷で遠洋・沖合漁業は不振に陥り、1965(昭和40)年頃からは、栽培漁業・養殖漁業の開発とともに、再び沿岸へと向かい始めた。
(※1)拓水11号に掲載された平岡安民氏の記事のタイトルは「漁業遍歴・対馬の巻(1)」であったが、拓水13号から「対馬暖流」に変更された。
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