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(3)機船底曳網漁業

1958(昭和33)年6月発行の拓水22号で、但馬海区漁業調整委員会の当時の事務局長が、中型機船底曳網漁業の変遷について紹介している。これによると、最初の機船は1911(明治44)年、香住町下浜しものはまの漁業者が建造した12馬力石油発動機船で、この機船によって底曳網漁業の試験を行った。その後発動機船の発達に伴い、手繰網に発動機船を応用した漁船が誕生した。1914(大正3)年には香住町の漁業者が、鳥取県から10t・14馬力の漁船を購入し、機船による手繰網漁業を営んだ。その後、1917(大正6)年に島根県で動力式揚網機が考案され、これが機船手繰網漁船に導入された。揚網機の導入によって漁獲効率が上がると、但馬地区の機船手繰網漁船数は年を追って増加し、1924(大正13)年には、15~16t・25馬力前後の漁船を中心に、60隻を数えた。一方、機船底曳網漁業と沿岸の各種漁業との間で、漁場をめぐる紛争が全国的に表面化した。これに対して農商務省は1921(大正10)年9月に、全国に機船底曳網漁業の禁止区域を設定し、さらに、1924(大正13)年10月には、東経130度を境として、以東・以西の操業区分を設定した。兵庫県においても機船底曳網漁業者と沿岸漁民とが対立した結果、機船底曳網漁業者は新漁場をめざした。

1920(大正9)年の漁場は隠岐近海、昭和初期には島根温泉津沖、山口県見島沖に及び、1930(昭和5)年には朝鮮東岸まで出漁を試みる者もあった。いずれも成功を収めた。

1932(昭和7)年、県水試の但馬丸が、ソ連沿海州沖の新漁場を発見した。但馬の機船底曳網漁船は、1933(昭和8)年から1941(昭和16)年まで、危険を冒しながら、沿海州沖への出漁を続け、好成績を収めたが、国際情勢が悪化したため出漁不可となった。沿海州沖への出漁において、陸船間の連絡と海難防止のために、漁業無線が必要となったことから、1935(昭和10)年に香住、口佐津(柴山)、竹野、港(津居山)の4漁業組合が共同で、香住漁業無線局を開設した。

1960(昭和35)年5月発行の拓水45号には、日本海区水産研究所と福井県・京都府・兵庫県・鳥取県・島根県・山口県の外海の各水産試験場の連名で公開された報告書『日本海西南海域の底曳網漁業とその資源』から、兵庫県に関係が深い「南部沿海州への出漁」が紹介された。南部沿海州(現在のロシア沿岸地方)の主としてピョートル大帝湾一帯の底曳漁場探検が、1930(昭和5)年に富山水試(立山丸)、1932(昭和7)年には兵庫水試(但馬丸)・山形水試(最上丸)・鳥取水試(鳥取丸)等によって一斉に開始された。民間側の動きとしては、兵庫県香住・柴山両港が合同で「香住沿海州出漁船組合」を設立し、1933(昭和8)年9月27日から所属船5隻を試験操業のために派遣した(この試験操業の結果が良好であったことから、1935(昭和10)年の出漁許可につながった)。1941(昭和16)年、国際関係が緊迫してきたので、兵庫船団は同年の春漁をもって沿海州沖への出漁を中止した。その間、のべ1,157航海の操業を行い、28,010t・2,468千円の漁獲をあげた。兵庫船団以外の漁船は、1941(昭和16)年から第二次世界大戦終了時の1945(昭和20)年まで、50~70t級漁船で操業を続けていた。沿海州漁場は利潤追求に最適であったことから、兵庫船団は同漁場への出漁のために漁船の大型化をはかった。そのことが、漁業資本の拡大を導いたのである。

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