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(15)栽培漁業(世界初の栽培漁業センターの設置)

「栽培漁業」という用語が拓水に初めて登場するのは、1963(昭和38)年5月発行の第81号である。兵庫県水産課長が、水産庁において「作りながらとる」という着想から用いられるようになった、と記している。

当時の瀬戸内海は、12万人の漁業者が5万余隻の漁船を駆使して、周年にわたって操業しており、他方において臨海工業地帯の開発による漁場の喪失、工場の増設及び都市部の人口増による排水の影響などによって、沿岸海域の幼稚魚育成場が失われつつあった。このため、瀬戸内海関係府県と水産開発協議会(※1)が中心となって、国の施策として積極的な資源の維持培養対策を樹立するよう要望を続け、1962(昭和37)年の政府当初予算で、世界初の「栽培漁業センター」を瀬戸内海に設置することが決まった。

栽培漁業センターは、1963(昭和38)年に香川県の屋島と愛媛県の伯方島に設置された。マダイ・スズキ・ボラ・クルマエビなどを生産して約1ヵ月間飼育した後、各県に新設される中間センターでさらに1ヵ月間飼育して、海に放流する計画が立ち上がった。翌1964(昭和39)年には大分県上浦町に3ヵ所目のセンターの設置が決まった。

兵庫県栽培漁業センター完成
▲兵庫県栽培漁業センター完成

栽培漁業センターの運営に関しては、関係府県からの意見と協力が必要であるとして、国は関係府県と漁連を会員とする「社団法人瀬戸内海栽培漁業協会」(以下「協会」と略記する。なお、協会は後に社団法人日本栽培漁業協会への改組を経て、独立行政法人水産総合研究センターに統合された(制作委員会注))を設立して、運営を協会に委託することになった。運営費の大部分は国が負担し、一部を関係府県と漁連がそれぞれ負担した。協会の初代会長には当時の兵庫県知事、副会長には兵庫県漁連会長がそれぞれ就任し、事務所は兵庫県立水産会館内に置かれた。

協会による兵庫県での最初の稚魚放流は、1963(昭和38)年9月のマダイ1万尾と9月下旬のカワハギ類2万尾で終了予定とした。次年度からは、放流する魚種も増え、尾数は10倍以上を見込んだ。これらの放流水族はいずれも移動するため、協会では、漁業者に対して「バック・フィッシュ」などの自主的な保護活動を呼びかけた。

1964(昭和39)年6月発行の拓水93号には「時の言葉」として上述のバック・フィッシュが取り上げられ、水産資源保護運動の最近の合言葉として紹介されている。欧米諸国では、早くからこの思想が国民全般に普及していたが、日本では法規で制限してもなかなか守られなかった現状を嘆いている。協会の放流事業を一層効果的にするためにも、こうした思想にもとづく普及と徹底が必要であると指摘している。

さらに拓水95号にあるように、県は禁漁区を設定するなど、保護措置がとられているところへ重点的に放流する方針をとったが、県に申し出があった禁漁区は3ヵ所に留まっていた。そこで、地域関係者をあげて保護措置をとるよう求めた。

1967(昭和42)年6月発行の拓水130号には1963(昭和38)年に稚魚放流が始まってから5年目を迎え、クルマエビ種苗の大量生産技術は確立されたが、肝心の魚類種苗の生産は実験段階に留まっていたと記されている。クルマエビ種苗についても、いつ・どこに・どれくらい放流すれば良いのかはわかっていないと記されている。切羽詰まった沿岸漁業の打開策として登場した栽培漁業ではあったが、まだまだ課題が多かったのである。

その後、県水試はクルマエビに次ぐ第2の栽培漁業対象魚種として、1971(昭和46)年度から、ガザミ種苗の生産に取り組んだ(拓水180号)。1981(昭和56)年10月発行の拓水301号には、1980(昭和55)年から県水試が初めてヒラメ種苗の生産試験を行い、成功に至ったとある。1982(昭和57)年には、兵庫県栽培漁業センターがオープンし、マダイ・ヒラメ・マコガレイなどの種苗生産業務を担うことになった(拓水308号)。

1982(昭和57)年10月発行の拓水313号によると、栽培漁業が日本の水産行政施策に組み込まれて20年が経過する中で、クルマエビの大量種苗生産技術は飛躍的に向上かつ安定し、近年は兵庫県内海地区で、毎年2,000万尾強を放流していた。放流技術についても、20年間の試行錯誤の結果、問題点を次々と改善した。一方で、今後も中間育成を丁寧に継続実施しないと、種苗生産量が維持されても、漁獲量の低下はまぬがれない、と記している。

ふ化したマダコ幼生
▲ふ化したマダコ幼生

2015(平成27)年4月発行の拓水702号には、兵庫県が2016(平成28)年度から、一部の魚種を除き、これまで無償で配布してきた放流用種苗を、有償化する方針を打ち出したことが記されている。これは阪神・淡路大震災の復興により悪化した財政の改善を図り、持続可能な行財政構造を確立するために取り組んできた「行革プラン」の一環であった。瀬戸内海で栽培漁業が始まって50年、種苗の有償化を通じて、より効果的な栽培漁業を目指そうとしたのである。

 

(※1)水産開発協議会は、瀬戸内海関係府県の水産課、漁連及び信漁連を会員として1962(昭和37)年に設置され、瀬戸内海地域の水産振興に係る活動を行った。事務局は瀬戸内海漁業調整事務局(現在の瀬戸内海漁業調整事務所)に置いた。正式名称は「瀬戸内海水産開発協議会」。2010(平成22)年に役割を終えて解散した。

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