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(25)のり流通
1960(昭和35)年8月発行の拓水48号には、のり共同販売事業の実現に向けた、内海漁連の取組が紹介された。近年のノリ養殖漁業の発展はめざましく、赤穂の県営、網干の姫路市営の各人工採苗場の本格的な稼働と、県水試の研究と指導によって、ノリ養殖は内海地区漁業の快事となった。生産されたのりは、これまで単協ごとに、共販や魚市場への出荷、相対販売などを行ってきた。一方県当局からは、債権保全や価格形成、系統金融機関からの資金を活用した品質改善、製品規格の統一などを行うために、内海漁連が一元集荷・販売すべきである、との強い指導があった。そこで、内海漁連では1960(昭和35)年5月開催の通常総会に、のり共販事業の実施を諮ったところ、満場一致で可決を見た。その後8月までに、関係漁協との協議を終え、同年9月初旬に買受人との協議を予定し、12月の共販開始を目指した。
1963(昭和38)年2月、内海漁連の乾海苔共販事業開始から3年目を迎え、担当課長が、当該ノリ漁期における共販実績の中間報告を行った。全国の生産状況についてみると、漁期当初の1962(昭和37)年12月の天候は、少雨・暖冬と悪条件が重なり、全国各地で「クサレ」が発生した。年明け以降は寒波が襲来し、回復の兆しがあったが、あまりにも激しい季節風の影響で、生産量が減少した。そのため、価格は強含みで、上中物で色があれば高値を呼んだ。兵庫県の状況は、季節風の強い地区を除いて、きわめて順調に推移した。内海漁連の共販取扱高は、前年同期を大幅に上回った(拓水78号)。
1968(昭和43)年1月発行の拓水136号で、内海漁連が、当時ののりの販売流通の状況について報告した。養殖・加工技術の進歩で、全国の”のり”の生産量は増大し、平年作で40億枚(400億円)となり、水産物の水揚高ではマグロ・カツオ類に次いで第2位となった。消費面では、これまで巻き寿司向けが主体であったが、味付、焼き、ふりかけ等の加工品が急増し、加工のりが消費全体の80%を超えた。一方、のりを扱う問屋・加工屋は、全国に約1,000軒あったが、このうち1割程度の業者によって、全国で生産されたのりの、ほとんどが買われていた。ただし、こうした業者の経営体質は、改善を要する点が多かった。このため全国ののり関係漁連は、のりの価格を引き上げることよりも、適正な価格と安定した取引の確立を目指した。その結果、全国で漁連共販体制の整備が進み、1960(昭和35)年に共販実施率50%であったものが、1968(昭和43)年には約90%に達した。さらに、全漁連の指導によって、共販実施漁連が地域ごとにグループを組んで、問屋の信用状況等をチェックするなど、共販の安定と円滑な運営をはかった。兵庫は、和歌山・岡山・広島・山口・愛媛・香川・徳島の7県とともに「中、四国近畿のり共販協議会」を結成した。さらに、全漁連は全国の問屋の中から有力な業者57社を選んで「のり流通中央会」のメンバーを指定し、全漁連のり調整保管事業の対象業者とした。
1968(昭和43)年6月、内海漁連が「のり共販推進協議会」を立ち上げた。この会は、県下のノリ養殖業者の生産性向上と流通の改善を目的としていた。具体的な事業内容は、①ノリ委託網の斡旋、②ノリ養殖に関する情報の提供と教育活動、③系統共販の強化充実、加えて④上記①~③に付帯する事業、であった。運営経費は内海漁連が負担した(拓水141号)。
1968(昭和43)年6月、のり業界の大手問屋が債権保全命令の適用を受け、内部整理を断行した。これによって、同社と直接取引があった業者や、これらの業者と関係があった業者が、連鎖的に影響を受けた。のり業界内に、数年来吹き荒れていた倒産旋風が頂点に達したのである。前述のように、ほとんど全てののりを買い付けていたのは、全国で1,000軒を超えるのり業者の中の、1割ほどにすぎなかった。すでに倒産したり整理に入った業者は、これらの1割の業者の中の3割を超えた。内海漁連では倒産の原因を分析したうえで、リスク排除の手段として、①確実な代金回収、②信用保証の確立、③有機的な横の連絡の強化、を指摘した(拓水143号)。
1970(昭和45)年7月発行の拓水166号には、内海漁連の設立20周年を記念した特集が組まれた。のり生産は、1959(昭和34)年頃から西播地方を中心に増大傾向となり、県の指導もあって内海漁連が共販事業を開始した。1960(昭和35)年12月13日、網干漁協の全面協力を得て、同漁協の集荷場を内海漁連の共販所とし、初回入札会を開催した。その後、1964(昭和39)年からノリ養殖は急速に伸び、1967(昭和42)年には冷蔵網の技術の導入、さらに協業化による経営の合理化・大型化によって、飛躍的な発展を遂げた。1969(昭和44)年度ののり関係組合は54漁協、建て込み柵数は78,000柵、生産量は1億6千万枚、生産金額は25億円に達した(10年前は2.2千万枚、1億円)。のりの販売は、生産の増大に伴って、単協から地区へ、続いて県単位(漁連)へと移行した。さらに全国的な視野が求められ、ブロック(九州、中四国、東日本など)または全国において、施策が検討・実施されるようになった。内海漁連が共販を開始した時点の参加商社は19社であったが、1969(昭和44)年度では全国的な商社を中心に48社となった。共販参加商社には、過去3年間の全国買入高の平均を買入限度額として設定し、全漁連が与信限度額を管理した。1969(昭和44)年9月、系統のり共販代金の回収リスクを補填することを目的に、全国のり共販基金が設立された。基金の積立額は対象商社との手形取引額の0.2%相当額で、事故発生時には、事故額の40%か当該漁連の積立額の5倍のいずれか低い方の額が補填された(1970年6月の内海漁連の積立額は1,612,000円)。
1969(昭和44)年度ののり生産は、全国で60億枚に達した。兵庫県でも1億6千万枚と過去最高となった。このため、漁期後半の共販価格は低落し、政府がのり問題研究会を設けて、生産から消費に至る一連の問題を検討する事態が生じた。1970(昭和45)年5月以降、全漁連はのり関係漁連を集めた複数の会議を開催し、今後の生産予測と対策の検討が始まった。水産庁は、直近数年の生産量を60億枚、10年後は70~80億枚と試算した。全漁連を中心としたのり関係漁連は、1969年漁期後半の価格下落の原因を、需給バランスの崩れ、問屋の資金不足などと分析した。これらを踏まえ、全国ののり関係漁連は、今後の対策として、①需給調整販売(かこい)の実施、②販売ルートの拡大、③製品の向上と生産コストの低減、④入札調整、⑤現行共販体制の強化、をまとめた。兵庫県では、1970(昭和45)年7月ののり共販推進協議会において、全国会議で示された対策を検討、次のとおり実施することを確認した。すなわち①需給調整販売は、生産量(2億枚)の2割程度を対象とし、物の確保・価格等は、作柄、市況を勘案して生産者と協議する、②販売ルートは県当局の指導のもと、流通業者とも十分協議して推進する、③製品の向上、生産コストの削減を積極的に進め、漁連の検査員を増員する、④入札調整は、入札回数を1月以降は月3回とし、出荷調整を図る、としたのである(拓水167号)。
1970(昭和45)年8月、内海漁連ののり共販事業推進委員13名が、千葉県漁連ののり事業所を視察した。この施設は、同年5月に竣工したばかりで、敷地面積6,690㎡、鉄筋コンクリート2階建て、保管施設と加工施設を備えていた。保管施設は、貯蔵倉庫3,000㎡、低温倉庫400㎡、加工製品倉庫100㎡、加工施設は、火入施設38基(日産能力101万枚)、焼加工施設7基(日産能力30万枚)であった。この施設の向い側に共販所があり、漁期中は入札が週2回、火入後の囲いのりは月に8回入札が行われた。入札の特色は、押しボタンによる電光掲示板を用いる形式とし、入札時の製品見本は10枚だけを並べ、入札は10枚単位で行った。加工施設は冷暖房完備、作業員は白い作業服と帽子姿で、衛生的・近代的な食品工場の雰囲気があった。加工原料は業者からの委託で、周年操業を行い、売り上げは1,000万円/月であった。のりは梅雨を持ち越せないため、生産者が売り急いでいたが、この事業所は火入施設と低温倉庫を備えていたことから、こうした不安は解消された。また、低温倉庫が加工場の周年操業を可能とした。さらに、この事業所では、運送業者と年間契約を結んで、加工した商品を委託先の業者に1ケースから宅配し、業者から好評を得ていた(拓水169号)。
1974(昭和49)年12月発行の拓水219号で、同年11月に竣工した内海漁連ののり流通センターが紹介された。この施設は、第一期工事で集荷場と保管倉庫、火入乾燥機が、第二期工事では入札室、商社控室、生産者控室、事務所、見付場が建設され、両者を併設する形で竣工した。ノリ養殖の大量生産時代に備え、のりの調整保管機能を有し、のりの安定供給と価格の安定を図るために建設されたのである。火入処理能力は日産100万枚、集荷保管4万ケース、見付場の見本展示1,500ケースを備えた。初年度の事業計画では、同年12月から始まる乾海苔共販14回、県下総生産量の5%の調整保管を予定した。兵庫県のノリ養殖は、大正末期頃に網干地区において、そだひび式養殖が開始されたことを先駆けとして、1955(昭和30)年頃からの人工採苗、浮流し養殖、冷蔵網などの技術開発と、加工機器の発明、漁業者の生産意欲の高まりによって、急速に伸展した。1974年には生産者数は2,720人、養殖柵数17万3,000柵、生産枚数8億2,700万枚、生産額約100億円に成長した。
1985(昭和60)年11月、県漁連のり流通センターに新見付場が竣工した。1974(昭和49)年11月には内海漁連が同センターを建設し、体制は整備されていたものの、その後のりの生産は増加の一途をたどり、既存施設が手狭となっていた。新見付場は、床面積約1,200㎡、鉄骨ALC板張平屋建で、屋根に自然採光方式が採用された(拓水351号)。
1986(昭和61)年2月2日、兵庫県漁連が神戸大丸百貨店前で、「兵庫のり」の消費拡大キャンペーンを開催した。兵庫県は、年間13億枚を生産して全国一となったが、消費の停滞が深刻な問題になっていた。そこで、消費者に「のり」に対する理解と認識を深めてもらうために、前年に引き続いてのキャンペーン開催となった。兵庫県海苔問屋(協)の協力を得て、節分の日に「家族そろって幸運の巻きずし丸かぶりを」をキャッチフレーズに、乾のり5枚と鬼の面などのセットを5,000名に無料配布した。巻きずしの早食い競争なども実施され、賑いをみせた(拓水353号)。
1986(昭和61)年7月、淡路水交会が淡路のりの消費拡大を図るために、淡路島内の小学校などに、味付けのり16,000食分を無料配布した。小学校では週2回の米飯給食の際、淡路水交会が作成したのりのパンフレットが配布されるとともに、生徒が味付けのりを試食した(拓水360号)。
(※)「のり」と「ノリ」の用語の区分については、加工品・食品を示す場合には「のり」を用い、生物・植物には「ノリ」を用いた。ただし、固有名詞(組織や会議の名称など)は、元来の名称をそのまま用いた。