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(29)FRP漁船
1968(昭和43)年3月、一宮町郡家港において、兵庫県瀬戸内海側で初となるFRP漁船が進水した。当時は、木造漁船を建造する技術者の高齢化の影響で、建造発注から進水までの期間が長期にわたっていた。このため、西浦水交会は、強化プラスチック(FRP)での漁船建造を内海漁連に強く要望した。その結果、内海側初のFRP漁船が建造されたのである。進水後の試験運転の結果は良好で、木造船に比べてエンジンの振動が減って乗り心地が改善され、安定性も高く曳網能力も十分であった。FRPは、①腐らない、②フナクイムシが入らない、③衝撃に強い、④自由な船型が可能、⑤錆びない、⑥手入れが簡単、⑦補修が容易、など小型漁船には最適の材料であると紹介された。今後は、漁業種類に応じた設計を行い、共同発注でコストダウンを図ることで、漁船の近代化に大きく寄与するであろう、と結ばれている(拓水145号)。
強化プラスチック(FRP)とは、ガラス繊維で補強されたプラスチックのことである。ガラス繊維は、1929(昭和4)年のニューヨーク株式市況の大暴落をきっかけに世界中に広がった大恐慌の不景気の最中に誕生した。アメリカの一ガラス会社が、7年間、500万ドルの巨費を注ぎ込んで、1938(昭和13)年にガラス繊維をつくることに成功し、1942(昭和17)年に製造法が確立した。ガラス繊維は、①細くするほど引っ張りに強くなる、②燃えない、③伸びが小さい、④弾性率が軽合金に匹敵する、などの特徴を有する。一方プラスチックは、1916(大正5)年に、木材や金属用材速乾性塗料として登場した。しかし、初期のものは性能が劣り、構造材の対象とはならなかった。プラスチックの研究は、その後著しい進歩を遂げ、ガラス繊維の製造法が確立した1942(昭和17)年には、高度のものが開発されていた。この年の前年には太平洋戦争が起こったが、プラスチックとガラス繊維を組み合わせたFRPは、アメリカが戦争遂行に欠かせない、新しい構造材として生み出した「戦争の子供」であった。戦後、日本でも合成樹脂の国産化、ガラス繊維の生産が始まったものの、1967(昭和42)年時点では、漁船への応用は進んでいなかった(拓水176号)。
FRP漁船では、樹脂とガラス繊維を組み合わせて船体を造っていく。ガラスマットを置き樹脂を刷毛で塗布し、またガラス繊維を置く工程である。木を切ったり曲げたりするのではなく、曲面を利用して、自由に形を作ることができる。すなわち、どのような型の船でも自由に造ることが可能となった。以後、合理的で無駄のない船型の開発が模索された(拓水177号)。
1971年2月時点での兵庫県下のFRP漁船の数は、20隻に達していなかった。1968(昭和43)年9月、県下初のFRP小型底曳網漁船が進水してから3年目を迎えていたが、漁業者は導入に対していまだに様子をうかがっていた。木造船は建造費用は安いが、毎年最低2回の船底塗装、破損の際の修理代、などの維持費が高くつく。一方、FRP漁船は建造費こそ高いが、船底塗装は必要なく破損の際の修繕も簡単である。FRP漁船普及のためには価格の軽減化をはかる必要があったのである(拓水178号)。
一宮町郡家港に停泊している兵庫県下初のFRP漁船は、進水から3年を経たが、その間の手入れはカキ落とし1回のみであった。振動も少なく、航行も安定し、速度も早い。唯一の欠点は、「船の型」が所有者の好みに合わないことであった。郡家の漁船は底曳が主流で、活魚槽の水替りを良くするために、船幅が狭く、へさきが上がっていた。これに対して、当該FRP漁船は、船幅が広くずんぐりしていた。県水産課の担当者は、今後のFRP漁船の普及を見据え、船型の適正化について考えることが必要であると指摘した(拓水179号)。
1971(昭和46)年9月、水産庁・関係府県・業界関係者31名が参加し、「瀬戸内海小型機船底びき網漁業合理化研究会」が発足した。当時の瀬戸内海の小型底曳網漁業は、①臨海工業地帯をひかえた瀬戸内海では漁業者の減少、高齢化が進みつつある、②船大工の減少から代船建造が困難で、さらに船価の高騰が漁業経営を圧迫している、③小型底曳網のエンジン出力10馬力制限が15馬力になり、新たな経営展開が必要となる、などの課題を有していた。同研究会は、安全性が高く量産可能なFRPによる標準船型を開発し、省力合理化を一気に進め、画期的な体質改善を図ることを目的として設立されたのであった。1971(昭和46)年10月には、研究会委員による現地視察と、今後1年間に実施する標準船型の開発計画が協議された(拓水182号)。
1971(昭和46)年11月、神戸市内で第2回瀬戸内海小型機船底びき網漁業合理化研究会が開催された。小型底曳網漁業のFRP漁船の標準船型を開発することが目的の研究会であるが、瀬戸内海は11府県にまたがり、漁法や風習も異なる。第1回の研究会では船型について様々な意見が示され、取りまとめに5時間を要した。その結果、Ⅰ船型:えびこぎとけたとの兼業型、Ⅱ船型:えびこぎとさわら流網との兼業型、Ⅲ船型:板びき専業型、Ⅳ船型:えびこぎ専業型の4船型を選定した。第2回研究会では、これら4船型の精密調査を実施するための具体的な方法が協議された。現行の木造船の性能を把握するため、排水量・動揺・速力・漁撈機械・活魚槽や巻揚装置など、詳細に調査することになった。県水産課担当者は、安全で便利なリモートコントロールの巻揚装置の開発も研究会の重要な課題である、との意見を表明した(拓水183号)。
1975(昭和50)年2月、国のリース制度に基づくFRP漁船第1号にあたる底曳網漁船が、内海漁連から林崎漁協に引き渡された。この制度は、内海漁連が事業主体となって漁船を貸し付けるもので、1974(昭和49)年度からスタートした。当時兵庫県下には漁船が約6,500隻あったが、半数は船齢7年以上の木造老朽船であった。しかも、後継者不足によって全国的に船大工の数が減少していたことから、従来兵庫県では注文から進水まで通常3ヵ月程度を要したが、この時期には半年から1年を要していた。そこで国はFRP漁船への転換を図るために、リース制度の検討を続け、この事業が開始されたのである。FRP漁船は、①標準型が決まれば大量生産が可能、②建造費は2割程度高いが耐用年数は10年以上、③維持・管理が簡単でコストが軽減される、などの利点があった。また、リース制度には、当座の自己資金が不要であるという魅力があった。県と内海漁連は、1975(昭和50)年度に25隻を建造する予定であった(拓水222号)。
漁船リース事業は、漁船等貸与制度導入実験事業として、1974(昭和49)年度より内海漁連が事業主体となり、4ヵ年計画で実施された。本事業は、漁業者にFRP合理化漁船の利用を容易にし、漁業経営の近代化を推進することを目的に、山口県、鹿児島県と兵庫県の3県のみで実施された。兵庫県では1974年度は総事業費5千万円で、小型底曳網漁船3隻、一本釣漁船2隻、大型のり作業船2隻、鮮魚運搬船1隻を貸与した。1975(昭和50)年度は総事業費1億5千万円で、約28隻の貸与計画があった(拓水225号)。