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(16)ハマチ養殖

1956(昭和31)年12月発行の拓水5号には、日本で最初にハマチ養殖を始めた香川県の引田漁協の沿革が紹介されている。ここには1924(大正13)年、当時の引田漁業組合長が個人経営でハマチ養殖に着手したとあるが、引田漁協のホームページ(2023年4月検索)によると、組合長の息子が父の全面的な支援を受けて養殖試験を開始し、わずか2年目の1928(昭和3)年に養殖に成功したと記されている。いずれにせよ、日本で初めてハマチ養殖に成功したのは、大正末期から昭和初期の香川県の引田であることには間違いない。この事業は、1951(昭和26)年の漁業制度改革によって、個人経営から引田漁協の自営漁業に移行し、組合のその後の経営に大きく貢献した。岡山県の日生や和歌山県の白浜などでも、引田と同様、築堤式のかん水養殖場で、ハマチ養殖を主体とした養殖漁業が営まれた。

兵庫県ではこうした各地の養殖機運に刺激され、ハマチ養殖漁業を、最近特に窮迫しつつある瀬戸内海の沿岸漁業の打開策の一つとして採り上げ、1958(昭和33)年度事業として「県営福良かん水養殖場」を設置して、ハマチ養殖試験を実施することになった。施設は、引田漁協の施設と同様、築堤式の養殖場であった。この方式は県下では初めての試みで、将来のモデル施設として県が建設した後、管理運営は県から南淡町に、さらに町から福良漁協に委託された(拓水21号)。

県営福良かん水養魚場
▲県営福良かん水養魚場

1958(昭和33)年9月発行の拓水25号には、養殖場は福良湾の通称「じゃのひれ」と呼ばれる入江を利用して設置することになったが、区画仕切網の設計・設置が遅れ、1958(昭和33)年6月19日からハマチ稚魚5万尾が順次到着し、これらを小割生簀に収容して餌付けする中で、区画仕切網が完成したのは6月28日、養殖場への稚魚放流は6月29日となったと記している。梅雨、真夏の日照り、秋の台風などの不安を抱えながらの試験開始であったが、1959(昭和34)年10月発行の拓水38号には、「去年(1958年)の福良は文句なしに勝ち」と記してあることから、関係者の努力が実って養殖試験が成功したと思われる。

一方、拓水38号で紹介されている洲本市由良湾では、1959(昭和34)年に網イケス式でのハマチ養殖試験が行われた。由良地区の3漁協が「由良町養魚組合」を結成して資金を手当てし、県と市が助成金を出した。網イケス式のハマチ養殖は、県下初の試みであった。当地の養殖試験は、由良町養魚組合が冷蔵庫施設を持たなかったことから、餌の凍結・運搬・保管にコストがかかり、給餌量を減らすなどしたためハマチの成長に影響したが、腹八分目が良かったのか、ハマチは健全に育った。ところが、同年9月26日の台風15号が由良と福良を襲い、由良の養魚場の4つのイケスのうち2つが壊れたほか、福良の養魚場では仕切網が流出して、いずれにおいてもハマチが逃げ出した。なお、その後の福良・由良地区におけるハマチ養殖業の動向は、「拓水」には掲載されていない。

1964(昭和39)年8月発行の拓水95号には兵庫県のハマチ養殖業者の増加ぶりが記載されており、1963(昭和38)年には業者数16・放養尾数160万尾であったものが、1964(昭和39)年には26業者・320万尾と倍増している。これは、沿岸漁業の行き詰まり対策として、行政が技術的裏付けのないままに振興を打ち出し、業界も大きくその方向に動いた結果であった。しかし、県水試は病気の問題などで遅れをとり、果たすべき役割を果たせていない、と記している。そこで、県水試では遅ればせながら1964(昭和39)年から、ハマチ養殖についての研究調査を開始し、まずは餌料の研究と養殖漁場環境要因調査の2項目に取り組んだ。

1968(昭和43)年度のハマチ養殖尾数は全国で約3,000万尾(兵庫県360万尾)に達した。しかし餌料不足による餌代の高騰が、各地の経営に影響を及ぼす恐れがあった。それを見こして、1965(昭和40)年頃から、兵庫県を含むハマチ養殖関係県の水産試験場が人工餌料の研究を始めた(拓水140号)。研究の結果、完全ではないが使用可能な餌ができ、配合餌料を与えた養殖試験では、生餌と比べてもそん色ないか生餌をしのぐ結果が出た。餌料単価は生餌と同等であった。

1973(昭和48)年からハマチ種苗の需給調整において、従来の全国3,000万尾の大枠が撤廃され、各府県で個別に設定することが認められるようになった。これによって、ハマチ養殖業者が実際の養殖尾数を公表できるようになり、養殖共済への加入や資金調達、赤潮被害の救済措置申請などに、大きなメリットが生じた。1973(昭和48)年の全国の計画養殖尾数は、前年の当初計画の2倍を超える6,078万尾となったが、前年の実養殖尾数と比較すると、4%増に留まった(拓水201号)。

1973(昭和48)年7月発行の拓水201号で、県水試がハマチ養殖事業の問題点を指摘している。1972(昭和47)年に発生した赤潮による養殖ハマチの大量へい死(養殖尾数の70%・295万尾)被害が、赤潮に弱い越年魚(2年魚)の増加によるものであるとして、近年の越年魚養殖の増加に警鐘を鳴らしたのである。1975(昭和50)年6月発行の拓水225号には、同年に発生した赤潮による養殖ハマチ(2年魚)の大量へい死(4.5万尾)についての記載がある。ハマチは、5月に他県から搬入したもので、同月下旬に餌付きが悪くなり、間もなく死滅した。

赤潮被害 ハマチ大量へい死
▲赤潮被害 ハマチ大量へい死

1976(昭和51)年6月発行の拓水237号には、県水試が兵庫県のハマチ養殖業の歴史と課題について記している。兵庫県のハマチ養殖業は1959(昭和34)年度から企業的に開始された。1965(昭和40)年頃からは規模拡大が始まり、続いて小割網による集中管理へと変遷し、安定養殖時代が到来したと思われた。しかし、「40年代の後半からは、赤潮、PCB、流出油、餌料、各種の病害等々によって、低迷時代へ移行しているやに思われる」と記している。1960年代前半の兵庫県の養殖尾数は、先進県としての地位を得ていたが、1976年には何とかベスト10に入っている状況にあった。そのため魚種の転換・施設の改良・外海域漁場への進出などが必要であると結んでいる。

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