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(18)マダコ資源(異常寒波等の影響)
1958(昭和33)年10月発行の拓水26号には、1958(昭和33)年に兵庫県瀬戸内海側で生じたマダコの不漁の原因について、決め手がないものの、執筆した県水試の技術者の私見として資源量の減少が影響していると記されている。私見に留めているのは、予算等の関係から基礎的な資源研究ができず、資源量が推計できなかったためである。
1936(昭和11)年の不漁の原因は、冬の異常寒波によって淡路近海で多数のマダイ・マダコが凍死して浮いたという記録に基づいて、寒波による資源量の減少によるものであったことが紹介されている。この年のマダコの不漁が、県費助成による「兵水式産卵用たこつぼ投入事業」の実施につながった。たこつぼ投入事業は1940(昭和15)年まで5年間続けられた。漁獲量は1940(昭和15)年頃から漸次増加し、1942(昭和17)年には戦前最高の漁獲量となった。このことから、たこつぼは投入から2年程度は効果があると記されている。
1958(昭和33)年11月発行の拓水27号には、26号と同じ執筆者が「マダコの資源補充機構」についての仮説を展開している。マダコ資源は、漁獲圧力の高まりや自然災害によって減少しても、自己増殖(個体の成長と個体数の増加)によって資源回復が図られる。その仕組みを資源補充機構という。マダコの資源補充機構を明らかにできれば、不漁の原因を取り除いたり、たこつぼ投入事業以外の効果的な資源増殖対策を講じることが可能であるとしている。執筆者は、仮説の前提として、これまでの調査結果を次のとおり整理した。すなわち①マダコは餌と環境に恵まれれば、成長が著しく早い、②マダコの産卵期は8月下旬から9月上旬が最も多い、③マダコは大きさによって生息場所を棲み分けている、④マダコには群衆性がなく個々に縄張りを持つ、⑤稚仔期のマダコは遊泳力が弱くプランクトン生活をするが、大ダコになると敵はない、の5つである。
不漁となった1958(昭和33)年の前年の漁期は、後半から漁獲量が減少し、1958(昭和33)年は漁期の前半に中ダコ(初期)は発生したが、全体の漁獲量は少なかった。このことから不漁の原因は、前年の小ダコ群の数が何らかの原因で例年より少なかったために、後半の漁獲が増えず、翌年の春の中ダコを採りつくすと、後続の小ダコ群が少なく資源の補充がきかなかったからであると考えたのである。さらに小ダコ不足の要因としては、小ダコの住家に関して、①餌料生物の不足、②害敵の増加、③寒波による凍死、④工場排水等の影響が考えられるが、ここでは、ヒトデなどによる二枚貝の食害で、小ダコの餌料が不足したことを取りあげ、小ダコの保護がマダコ資源の重要なポイントであると結論づけた。
1960(昭和35)年5月発行の拓水45号では、1959(昭和34)年に県水試が行った仔ダコの飼育試験において、稚ダコが降雨による塩分低下に弱いという報告がなされた。これに基づいて、実験を行ったところ、塩素量が16‰以下になると生存に影響を及ぼすことがわかった。この実験結果から前述の1958年(昭和33)年のマダコの不漁について、前年10月に鹿ノ瀬漁場近辺で16‰代の塩素量が観測されたことをあげ、これが不漁に結びついた可能性を示唆したのである。
1959(昭和34)年から県水試が取り組んできたマダコの人工飼育実験は、4年の歳月をかけて1962(昭和37)年8月に成功した。浮遊稚ダコには、餌としてエビやカニの幼生を与えたところ、1ヵ月~1ヵ月半で12~13㎜に成長して海底に沈着した。その後小ガニを与えた結果、底棲生活60日で5~6㎝に達した。また、鹿ノ瀬で産卵ふ化した稚ダコが、播磨水域では加古川市別府沖2~6マイル、水深10~15m付近に多く分布していることも分かった(拓水73号)。
1963(昭和38)年7月発行の拓水83号では、当時の県水試場長が、1963(昭和38)年1月上旬の大寒波と同年4月中旬からの長雨の影響で、タコの被害は目に余るものがあり、鹿ノ瀬海域の親ダコはほぼ全滅したと述べている。そこで資源の早期回復のために、県と明石市・北淡町、鹿ノ瀬会(※1)が一体となって、九州天草から仔ダコ5万尾を購入し、放流した。また、鹿ノ瀬会では、放流にあたって同年7~8月の2ヵ月間マダコを禁漁とすることを決め、海区漁業調整委員会もこれを承認した。県水試では、放流用のマダコ種苗の生産試験を続けていたが、量産できるところまでは進んでいなかった。なお、拓水84号にはマダコ放流事業の概要が紹介されている。
拓水309号には、県水試が1980(昭和55)年度から沿岸漁場整備開発事業によって、3ヵ年計画で実施したマダコの大規模増養殖場造成のための資源の解析と診断結果が紹介されている。この調査では、迅速解析手法のドイラップ法が用いられた。その結果、小ダコ段階での獲りすぎが指摘され、沈着期以降の稚ダコ保護を実施する場合は、増殖場の造成面積を現漁場の1/40とすることで、漁獲量が1.6倍になることが示された。
1984(昭和59)年当初の異常寒波によって、再びマダコが大量にへい死したので、資源回復を図るためにマダコ放流事業を実施した。事業量は、産卵用親ダコ10t、産卵用たこつぼ6,000個で、海区漁業調整委員会が同年8月20日から10月31日まで採捕禁止の指示を出した。また、この年の異常冷水現象について、県水試の水温記録から解説が加えられた。それによると、1984(昭和59)年2月に入ってから水温が下がり始め、2月9日に5.16℃と最低値を記録、その後横ばいとなり、同年3月27日まで6℃台が続いた。この間にマダコ等の大量へい死が認められたが、この時期の水温は平年と比べて2.5~3.0℃低い状態であった。1963(昭和38)年の大寒波の際の水温の状況も、同規模の異常冷水であった(拓水336号)。
県水試による1932(昭和7)年以降1984(昭和59年)までの水温観測データから、1936(昭和11)年、1963(昭和38)年、1984(昭和59)年の3ヵ年が異常冷水年と言えることがわかった。さらに、統計計算による異常冷水の発生頻度は、数十年に一度の割合でしか起こらないことが明らかとなった(拓水337号)。
漁業者の間で、マダコが「梅雨の雨水を飲んで大きくなる」と言われている話を実証するために、県水試は1990(平成2)年4月中旬に明石市南二見沖で採取した平均体重2.8gの稚ダコの飼育試験の結果を報告した。予備飼育の後の同年5月1日、コンクリート水槽(水量400ℓ)で飼育を開始し、6月15日に大型の水槽(水量700ℓ)に移して継続飼育、餌には二枚貝やカニ類、6月からはアサリを与えた。当初15尾いた稚ダコは、共食いで7月2日には4尾となったため、体重の推移は測定日の上位4尾の平均値を用いたが、5月1日に平均8.1g(最大14.3g)のマダコが2ヵ月後の7月2日には平均210.0g(最大270.1g)と約20倍の重さに成長した(拓水407号)。
1994(平成6)年7月発行の拓水453号には、1992(平成4)年11月~1993(平成5)年6月まで、県水試が毎月二見沖の天然稚ダコを採捕し、それらの成長と食性に関して調査した結果の報告がある。これによると11月に体重0.1gで着底した稚ダコは、1月~4月の間はほとんど成長しないことが明らかとなった。この間の稚ダコはヨコエビ類やワレカラ類といった微細な甲殻類を食していたが、空胃個体が多いことも分かった。4月以降、食性はカニ・エビ類を中心に、二枚貝・魚類へと大型化・多様化し、マダコの体重増加を加速度的に早めていくと推定された。
1996(平成8)年3月発行の拓水473号には、県水試から、マダコ資源に影響を及ぼすとされている水温および塩分とマダコの年間漁獲量との関係が提示されている。水温については、ふ出期から漁獲加入直前(前年10月~6月)の平均水温と明石海峡におけるマダコの漁獲量の関係から、低水温年は漁獲量が少ないことがわかった。一方、塩分については、マダコの漁獲量との明確な関係は見いだせなかったが、植物プランクトンの増殖速度との相関など、塩分の間接的な影響について報告がなされた。
(※1)正式名称は「鹿之瀬会」という。鹿之瀬漁場に共同漁業権を有する、明石市内の4漁協と現在の淡路市内の4漁協で組織された団体である。水産資源および漁場の保全、漁業操業安全対策などを図ることを目的にしている。
関連ページ
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- 異常冷水現象の出現は、1936年・1963年・1984年で、ほぼ20年に一度発生している
- 1990年県水試が稚ダコの飼育試験、前年秋生まれの稚ダコが翌年5~6月に成ダコに
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