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(24)-1 ノリ養殖(養殖技術編)

1956(昭和31)年、県水試は前年まで全量を他府県から購入していたノリの種ひび(種網)の県内自給を計画し、これを赤穂漁協に委託することを決めた。前年度の他府県発注分の5割にあたる150枚を自給する計画を立てて、県内漁協に購入の希望を募ったところ、合計280枚の申し込みがあった。予定の150枚は各漁協に割り当て、不足分は愛知県産と徳島県産で補った。価格は種ひび(幅1.2m×長さ18m)1枚につき、愛知県産1,000円(運賃込み)、徳島県産800円(現地渡し)、赤穂産690円(現地渡し)とした(拓水2号)。

また、1956(昭和31)年9月発行の拓水2号では県水試が、網ひびの利点と、種付けから収穫までの管理方法等について、さらに技術開発が待たれるノリの人工採苗について紹介した。兵庫県下では、1955(昭和30)年頃から、播州地方でノリ養殖に網ひびを使うようになったが十分に普及はしていない、と述べている。以前は「そだひび(笹の枝など)」が使用されており、漁場が浅く、網ひびが使えない地域もあるが、大半の漁場では網ひび養殖が可能であるし、網ひびは管理しやすく、単位面積当たりの収穫量も多くなり、漁場の潮通しも良くなる、と網ひびへの転換を勧めている。ノリの人工採苗については、ノリの生活史が明らかとなり、各地で実用化に向けた研究が行われていることも紹介している。

1956(昭和31)年12月発行の拓水5号には、県水試が赤穂漁協に委託した種ひび150枚の配布先と成育状況の報告がある。配布先は、網干・高砂・別府・尾上・明石・洲本・湊の各漁村であった。種付け結果は良好で、その後の生育状況も順調であった。ノリ養殖が全国的に拡大する中、種ひびの需要が増加して種場が不足傾向にあった。このため、兵庫県が毎年200枚前後買い付けている愛知県産も、近年品薄で品質も不揃いであった。このような状況下、以前から考えていた県内自給が、この年初めて実現した。兵庫県下の種ひび需要を500枚と見積もり、次年は赤穂漁協の協力を得て、全量自給の心構えをしている、と結んでいる。

アサクサノリの人工採苗技術が開発され、兵庫県は赤穂市御崎に1957(昭和32)年12月にノリの採苗施設を設置した。県水試では施設設置後の12月から翌年3月まで、準備したカキ殻2万個に果胞子かほうし付を行った。果胞子付が終わったカキ殻は、4~9月まで培養池に垂下して糸状体しじょうたいを成長させた。秋になると糸状体の一部に生じた胞子嚢ほうしのうが成熟し、黒紫色の糸状体が薄赤く色づいてくる。成熟した胞子嚢の中には単胞子たんほうしが造られ、単胞子が成熟すると海水中に放出され、種付に用いる段階となった。種付の方法については、以下のとおりであった。①採苗池に取り付けた回転式採苗器(直径1.65m)にノリ網を10枚巻き付ける。②1分間に18回の速さで30分間回転させて、池の中に放出される胞子を確実に付着させる。③この種付方法で、網ひび5cm間に70~80個の胞子が付着する。県水試の担当者は、将来、沿岸漁場の喪失が進んでも、漁民の生活の安定を図るため、ノリ養殖が陸上において完結できる技術が開発されることを夢見ている、と述べている(拓水21号)。

水車採苗:県水試赤穂のり採苗所
▲水車採苗:県水試赤穂のり採苗所

1958(昭和33)年6月、県水試講堂において「兵庫県海苔養殖協会」の設立総会が開催された。会員は県下でノリの区画漁業権をもつ漁協で、会員が協力して①ノリひび(網)の斡旋、②ノリ養殖技術・加工技術の改良普及、③のり製品の流通改善に関する情報交換、に取り組むことととした。初年度の事業計画としては、①種ひび、県内・県外あわせて3千枚の斡旋、②県の委託を受けて種付けした研究用ノリひび120枚の生産者へ配布と生育状況の調査報告、③のりの共同保管・販売所の設置促進などに取り組むこと、の3点であった。協会の事務所は県水試内に置かれ、事務は県水試の養殖技術専門指導員に委嘱することを予定した(拓水23号)。

1960(昭和35)年8月発行の拓水48号に、県水試が同年8月4日から3日間にわたって開催した、ノリ養殖に関する漁業技術修練会の模様が紹介された。初日は東京水産大学の教授を講師に招き、定員40名の県水試漁民教室に60名を超える聴講者が集まった。のりの生産数量の伸びは著しく、1955(昭和30)年度に全国で生産枚数15億6千万枚であったものが、1959(昭和34)年度には22億9千万枚と1.5倍に増えた。講師はノリ養殖が発展した理由について、①消費の増加、②価格の上昇と相場の安定、③漁家の増加と漁場の造成、④技術の改良・進歩、の4点を指摘した。具体的にいうと、①については、都市勤労者の収入が増え、生活水準が上がったこと、②については韓国のりの輸入が制限され、味付・焼などの加工品が増えたこと、③については、ブルドーザーで干潟を耕す時代は去り、防波柵や導流堤を造って漁場の造成を図る時代となったこと、④については、そだひびから網ひびへ、天然採苗から人工採苗へ、干潟養殖から沖合養殖へと、技術の進歩は留まるところを知らないこと、があった。

1961(昭和36)年1月発行の拓水53号で、県水試が、ノリ糸状体の作成と培養方法を紹介している。これまで兵庫県で種網を自給できるのは赤穂のみであったが、1960(昭和35)年秋の種網生産は環境の悪化で全滅に近く、地元はもちろん赤穂産の種網に依存していた産地は、種網確保に苦慮した。一方では、人工採苗の技術が漁業者の間でも普及しはじめ、1960(昭和35)年にカキ殻(糸状体)を培養した兵庫県の漁業者は、10漁協・230名に上った。毎年1月中旬から3月上旬までが、カキ殻に果胞子を付ける適期であることから、貝殻の洗浄、原藻の選択、果胞子の付け方、カキ殻の培養方法などが詳しく解説されている。1961(昭和36)年2月には、県水試がノリの人工採苗の技術研修会を開催した(拓水54号)。

1961(昭和36)年2月発行の拓水54号には、県水試の普及調査室に、1961(昭和36)年1月から「ノリ速報板」が設置されたことが紹介された。この速報板は、ノリ養殖を営む36漁協の漁場の名前を書き連ね、各漁場の成績が一目でわかるようにしていた。新しい情報が入るたびに、紙片に書いてピンで留めていく。この年に初めてノリ養殖を試みた漁協(家島・大塩・坂越・屏風浦(江井ヶ島)・林崎・神戸市西部・仮屋・育波浦)の様子も紹介された。

1962(昭和37)年5月、赤穂漁協において「のり談話会」が開催された。出席者は講師を囲んで、糸状体の培養と野外採苗、ノリ葉体・ノリ糸状体の病気と対処方法を学んだ(拓水70号)。

1965(昭和40)年11月発行の拓水110号では、全漁連が「ノリ部」を新設したことが紹介された。ノリ部は、一般消費者ののり●●需要を増大させるため、宣伝活動を強く推し進める役割を担った。また、同年11月には、日本短波放送の番組「漁協の時間」に、ノリ部の事業内容の説明が8回にわたって放送される予定となった。

1965(昭和40)年11月に開催された兵庫県漁協婦人部大会において、神戸市西部漁協婦人部が「海苔養殖についての私達漁協婦人部の心構えについて」を発表した。同漁協の須磨浦地区で、漁閑期対策に1960(昭和35)年から取り組んだノリ養殖業の経過と、婦人部の関り方が報告された。それによると、1960(昭和35)年は固定張り10枚で青年会が試験的に取り組んだが、これらはいずれも時化で流出した。翌年も50枚を購入して、青年会が取り組んだが、再び時化で流出した。1962(昭和37)年からは組合事業として、固定張り250枚・いかだ式50枚で、組合員全員が参加したが、これらも時化で流出し、組合員からは不満の声が上がり始めた。翌年も愛知から450枚、四国から10枚を購入して取り組んだが、暖冬異変で成績が上がらず、この4年間のノリ養殖期間中の組合員一人当たりの収入は、わずか13,000円ほどで漁家の生活は火の車となった。組合員の不満の声は高まり、個人で漁に出るほうが良いと考えるようになった。しかし、機械類もほとんど揃えたことから、ノリ養殖に再度取り組むことになり、婦人部も協力することを決めた。5年目となる1964(昭和39)年の漁期は、固定張り290枚、全浮動式500枚、いかだ式30枚を5グループに分かれて管理し、機械類も完備した。婦人部では、子供がいる部員は昼間だけ、いない部員は組合員と一緒に徹夜で作業をすることを決め、一致団結して加工作業に取り組んだ。その結果、160万枚を生産し収益も1,050万円となった。6年目の1965年は前年の3倍の網をもち、組合員は沖の管理に専念し、婦人部が陸の加工を一手に引き受けることになるが、希望に燃えて張り切っている、と結んでいる(拓水112号)。

1966(昭和41)年1月発行の拓水112号は、林崎漁協の養殖研究グループ4組が共同出資して建設した、ノリ人工乾燥場を紹介した。作業場には、脱水機・チョッパー・簀洗浄機等の新しい機械が、効率よく作業できるよう整然と配置された。作業場の一角を占める人工乾燥場は約13㎡(4坪)で、2時間で約1,000枚ののり●●を乾燥できた。

1966(昭和41)年9月に東京で開催された、第5回全国優良漁業経営実績発表大会において、森漁協の組合長が「未利用漁場の開発による周年操業について」を発表した。冬期の漁閑期の対策としてノリ養殖業を取り上げた。竹筏を利用した独自の「360度回転方式」の浮動式ノリ養殖技術が、沖合漁場でのノリ生産を可能とした。このことが高く評価され、同組合長は農林大臣賞を受賞した(拓水121号)。さらに、拓水123号では、同組合長が第5回農業祭の最高の栄誉を担う、水産部門の天皇賞を受賞したことが紹介された。

姫路市漁民組合連合会は、1966(昭和41)年10月1日、姫路市のり人工採苗場において、ノリ養殖の施肥・病害駆除船「はくろ」の竣工式を開催した(拓水121号)。

1967(昭和42)年3月、神戸市垂水公会堂に漁業関係者100名が集まり、講師を招いてノリ養殖研究会が開催された。神戸市西部、明石市沿岸で数年前から取り組んでいる浮動式のノリ養殖について、失敗しないために、現地診断の結果を踏まえ、講師から当地におけるノリ養殖のポイントを聞いた(拓水133号)。

1968(昭和43)年7月発行の拓水142号には、林崎漁協青年部の機関紙「漁父」の創刊号に元林崎漁協青年部長がノリ養殖漁業を始めた頃の取組を寄稿した「回想」が転載された。ノリ養殖を始める前の秋~冬の仕事は、たこつぼ漁業用のワラ縄編み作業で、何ら進歩のない単純な作業の繰り返しに、耐えることが辛かった。そんな時、県水試からの熱心な指導があって、昭和35年の漁期、ノリ養殖を始める決心がついた。さっそく、県水産課や県水試に日参して、ノリ養殖について検討を開始し、先進地視察や研修会にも参加した。種網は同年11月上旬に到着したが、青1がたくさん着いていた。種網を固定柵の指定された水位に張ったが、10日経ってもあまり伸びず、網にはワラごみと鶏の羽毛が付着するだけという状態が続いた。1年目は、他地区の半分程度の成績であった。2年目は種網の状態が良く期待したが、突然アカグサレ病が発生した。県水試から、この病気は伝染するので短く摘み取るよう指導を受けたが、病気の怖さを知らず摘み取らずにいると、1週間ほどで全部枯れてしまった。また、干しのり加工についても問題があり、縮んだり穴が開いたりした。こうして3年間ノリ養殖を続けたが、地元では競争相手もなく、相談相手は遠く、仕事の合間の小遣い稼ぎ程度の安易な気持ちもあって、進歩がなかった。1963(昭和38)年の大寒波を契機に、林崎でもようやくノリ養殖を営む仲間が増えた。しかし、季節風に対する知識・技術がないため、漁場は条件が悪い港内にとどまったままで、さらに3年間の失敗を重ねた。はじめて港外で養殖を行った際は、西風が2日間ほど吹くと、錨が引きずられ、網には木片や藻がかかり、ノリは流れて網が真っ白になってしまいショックを受けた。その後、荒波対策として防波柵を設置することで、港外漁場でのノリ養殖が可能となった。最初の取り組みから8年が経過したが、林崎漁協では1人の落後者も出なかった。冷凍網技術の開発や、摘採から乾燥作業の機械化が進むなか、漁場の密殖防止や干出方法の開発などの課題が、他方において残されていた。

1968(昭和43)年11月発行の拓水143号では、淡路西浦地区で初めて、企業的なノリ養殖漁業に挑戦する一宮町の3漁協(尾崎・郡家・江井)の取り組みが県洲本農林担当者によって紹介された。1968(昭和43)年3月下旬、一宮町の3漁協の全役員が出席して、ノリ養殖に関する協議会の設置を決定した。協議会では、冬期の漁閑期対策として、初年度からできる限り多くの漁業者が参加して、競争しながらノリ養殖漁業に取り組むこととした。初年度計画は、3漁協合せて400枚を超えるものとなった。協議会に同席した県洲本農林担当者は、数枚から試験を開始するよう指導したが、失敗を恐れず実施したいとする3漁協の強い意志に、計画を支援することを決めた。同年5月初旬、県水試において、3漁協の組合長、県洲本農林担当者、県水試場長らが、淡路西浦地区におけるノリ養殖の可能性について協議した際、あらためて3漁協の強い意志を確認し、県水試として協力することを約束した。そして、同年7月19日に神戸市内で開催された、海区漁業調整委員会において、一宮町3漁協から要望があった「ノリ養殖区画漁業権」に関する漁場計画が審議され無事に通過した。県洲本農林担当者は、成功を収めるには、計画的な進め方と漁業者の努力が必要である、と述べている。

1968(昭和43)年9月、神戸市西部漁協において、ノリ養殖講習会が開催され、全漁連のり養殖研究センター長が講演した(拓水145号、146号)。

1968(昭和43)年11月発行の拓水146号で、県洲本農林が淡路島におけるノリ養殖の歴史と現況、今後の方向などを紹介している。淡路島で最初にノリ養殖が始まったのは、1955(昭和30)年頃の炬口たけのくちと言われている。その後、1959(昭和34)年頃に森漁協の組合長が「筏式全浮動養殖法」を開発、以後この方法を導入した養殖が島内に急速に広まった。1968(昭和43)年時点でノリ養殖を行っている地区は、比較的海が穏やかで、栄養塩類が豊富な東浦地区に偏在していた。その他の地区では湊、阿那賀あなが、南淡阿万あまで行われていた。1965(昭和40)年度の養殖柵数は902柵、1967(昭和42)年度が1,150柵、1968年度は約4,000柵と急激に増えた。特に1968年は、冬期荒天が多い西浦海域において、一宮町の3漁協による初めての試験養殖の実施が計画された。養殖施設方式は前述のとおり、筏式が多かったが、由良及び湊の湾内ではひび式、近年では大井式(愛知県水試と大井漁協が1959(昭和34)年に共同で開発した「浮流しノリ養殖技術」:制作委員会注)が増えてきていた。淡路のりの生産枚数は、1965(昭和40)年が496,000枚、1967(昭和42)年が1,172,000枚で、1柵当たりの収穫量は約1,000枚となった。1968年当時の淡路島におけるノリ養殖の最大の弱点は、種網のほとんどを島外業者に委ねていることで、大部分を愛知、九州の業者に依存していた。県洲本農林担当者は、種苗の自給が今後のポイントとなると指摘していた。

ズボ採苗準備:神戸市西部漁協(現JF神戸市)
▲ズボ採苗準備:神戸市西部漁協(現JF神戸市)

1969(昭和44)年3月発行の拓水150号には、1968(昭和43)年漁期のノリ養殖の状況が、地区別にまとめられている。赤穂地区ではこの年から大規模な浮流し養殖が始まった。姫路地区では市営採苗場が生産した糸状体が需要に応じきれなかったので、培養槽を増設する計画であった。明石地区では市が生産した糸状体を用いた人工採苗試験に成功した。次年度はカキ殻5万個分の糸状体の生産を目指すことを予定していた。神戸地区では、同年地元採苗に成功した。淡路地区では、西浦地区一宮町3漁協(尾崎・郡家・江井)の試験養殖で、順調な成育がみられた。

県洲本農林が報告した、淡路島にける1968(昭和43)年ノリ漁期の結果についてみると、前述した一宮町におけるノリ養殖が成果をおさめたことで、島内でノリ養殖がブームになりつつあったことが理解できる。安定した生産を続けるためには、種網の自給がポイントであるとの指摘もなされた(拓水154号)。

1969(昭和44)年7月発行の拓水154号に、「広域ノリ養殖の考え」が匿名で寄稿された。近年、ノリ養殖が各地で広がりを見せているにもかかわらず、全国の生産量が年間30億枚前後で頭打ちとなっていた。その原因は、大手産地のいずれかにおける不作であった。このため、新漁場開拓が急がれるが、沿岸漁場はすでに利用されていることから、沖合や他県漁場への広域化が示唆された。県水産課は、1969(昭和44)年10月に、沖合でのノリ養殖漁場開発試験を実施すると発表した。実験漁場は大阪湾に面した淡路島の仮屋沖約2,000mで、水深は63mであった。このような深い場所での養殖試験は全国的にも例がなかった。養殖施設を保持するため、施設は柔軟性がある二重構造とし、100枚張の浮流し式養殖セットを24丁の錨で係留する方式を採用した。県ではこのセットを2基準備し、実際の養殖作業は、地元の公共的な団体に委託予定とした(拓水156号)。

1969(昭和44)年10月発行の拓水157号には、1969(昭和44)年ノリ漁期の県下各地の養殖計画が紹介された。全体では養殖柵数が、1968年の4万柵から1969年は8万柵と倍増した。神戸地区では、垂水以西に漁場が広がり、舞子地区に防波柵が設置される見込みであった。明石地区では、1954(昭和29)年に網ひび1、2枚を張り込んで始まったが、1964(昭和39)年に防波柵が設置され全浮動方式に取り組んだ結果、「明石のり」が全国ブランドに成長した。1969(昭和44)年は林崎を含む4漁協が共同で、鋼管杭による1万5千柵の新漁場を設置、明石市全体で2万柵の張り込みとなる見込みであった。姫路地区では網干漁協がノリ網専用の冷蔵庫を建設しており、1万枚が収容可能になる見込みであった。赤穂地区では本漁期から坂越さこし漁協が試験養殖に着手し、前年の福浦と合わせて市内全漁協がノリ養殖に取り組むことになった。淡路東浦地区では、地元採苗に意欲的な漁協が増えた。西浦地区では、前年度の一宮町3漁協の結果に刺激され、五色、富島としま育波いくは地区が新たに養殖を開始する見込みであった。南浦地区では1968(昭和43)年に試験的な養殖を行った。翌1969年には湊、丸山、阿那賀あながで、養殖が本格化した。また福良、阿万あま地区も新たに加わる予定であった。

神戸市西部漁協関係者と神戸市殖産課の担当者が、1969(昭和44)年8月10日から15日間、北海道ノリ養殖センターで開催された研修会に参加した。このセンターは、全漁連と北海道漁連が共同で、ノリ漁場の開発と全国への種苗供給を目的に設立したもので、夏期に約3千枚の種網を生産していた。研修は、センターの宿舎に宿泊し、種網生産の実践的な技術習得を目的に行われた。明石市の関係者も、8月23日から15日間の研修会に参加した(拓水158号)。

1970(昭和45)年2月発行の拓水161号には、1969(昭和44)年11月に柴山浅海組合の有志4名が、柴山港内に種網2枚を張り込んで行った養殖試験の結果が示されている。同年12月19日にみぞれが降る中で摘採、750枚を収穫した。この養殖試験は、但馬水産研究クラブ連合会が計画し、柴山浅海組合の有志に委託したものであった。但馬におけるノリ養殖試験は、1961(昭和36)年に柴山港水産研究クラブが柴山港内で実施したのが初めてで、400枚の製品を作ったが、その後誰も続けようとはせず、1967(昭和42)年とその翌年、個人が着手したものの波や流れ藻の影響で失敗していた。県豊岡農林の担当者は、但馬地区でノリ養殖への関心が高まることを期待する、と述べている。1970(昭和45)年3月、林崎漁協と明石浦漁協が、鹿ノ瀬漁場においてノリ養殖試験を実施した。場所はカンタマ灯台の西南西約6,000mの海域で、80枚張りを4セット設置した。明石市のノリ養殖は、ここ数年、目の覚めるような発展を遂げ、着業希望者が激増して漁場割当ができなくなったことから、関係者が検討した結果、鹿ノ瀬での試験実施に踏み切ったものであった。県水試によると、結果は上々で、真黒で良いノリが生産できた、と記している(拓水164号)。

1971(昭和46)年2月、第19回漁村青壮年活動実績発表兵庫県大会が開催され、森漁協の組合長が、1969(昭和44)年~1970(昭和45)年のノリ漁期に、県の委託を受けて実施した、仮屋沖での沖合ノリ養殖試験の状況について、特別発表した。これによると、仮屋沖2,500m、水深65mの海域に、2基のセットを設置し森漁協と仮屋漁協が管理にあたった。初年度は沖合での養殖の技術試験、セットの構造試験、経営分析等に取り組んだ。試験中に航行船舶による損傷が発生するなど、点滅浮標の高さ、光の強さ等を改良する必要があったという。第2年度は沖合での干出作業の簡略化を検討しており、網を浮上させる装置も開発しテスト中であるが、こうしたことが省力化に大いに貢献するであろうと、今後の施策についても話題がおよんだ(拓水174号)。

1972(昭和47)年4月発行の拓水187号には、同年3月に県水試で開催されたのり養殖経営技術研修会の概要が紹介されている。この研修会は、県が水産業改良普及事業の一環として、毎年開催しているものであった。今回は、拡大するノリ養殖漁業において、経営問題が課題となっているため、加工部門の協業による合理的経営の先進事例を知る研修が行われた。参加者は、県および市町、漁協等関係者約70名であった。講師には、和歌山県唐尾海苔生産組合の組合長を招いた。同生産組合は1964(昭和39)年にノリ養殖業者52名で発足、固定柵と浮流しを合わせて1,200柵を用いて、年間300~400万枚を生産した。施設は、鉄筋建ての加工場(洗浄~乾燥までの加工機械17台)、採苗場(水槽4面、糸状体培養6万個)、冷蔵庫(ノリ網5千枚収納)、など集団的な協業施設として整えられた。組合機構も総務、養殖、加工の3部門に分け、それぞれに理事を配置した。また、養殖・加工部門の作業は共に8班体制とし、班長が各工程の責任をになった。加工部門では婦人部員が作業員となり、12時間労働2交代制で従事した。組合員の1日当たりの摘採量は60㎏に制限して、加工能力とのバランスをとった。ここで生産される乾海苔の加工経費は約4円/枚、摘採経費は3円/枚(日当2円、消耗品1円)で、採算ラインを7円/枚と定め、これを下回るものは全て廃棄した。兵庫県の場合は7~8人程度で共同加工を行っているが、設備の償却費負担が大きく利益率が低いので、今後改善されることが期待された。

1973(昭和48)年12月、県は国の水産業改良普及員の試験事業(水産技術導入パイロット事業)を利用して、淡路水産センター内に、ノリ陸上採苗施設を設置した。鉄骨スレート葺き30㎡の建物に、室内採苗用水車1基と水槽4基が整備された。県洲本農林の普及員が、県水試の指導のもと、手始めに浦漁協の種付けを行ったところ、極めて成績が良かった。この施設を活用して、他県産の種網の依存度が高い淡路地区で、自家採苗技術を普及させたい、と記されている(拓水210号)。

ノリ陸上採苗施設:淡路水産センター
▲ノリ陸上採苗施設:淡路水産センター

1974(昭和49)年8月発行の拓水215号には、県が1973(昭和48)年度ノリ振興対策事業の一環として実施した浮流し育苗施設の開発の状況を、県水試が報告している。同事業は内海漁連が事業主体となり、県水試、県洲本農林、一宮町の指導と、一宮町漁協郡家支所の協力によって実施された。施設は、淡路のりセンター沖合300mの郡家漁場内に鋼管46本を打ち込んで設置され、固定式干出装置と巻上げ干出装置も付設された。鋼管の間隔は21×5mの張込みが基準で、全施設で119柵の張込みを可能とした。1973(昭和48)年10月下旬から11月上旬に、淡路のりセンター及び郡家地先で採苗された網を張り込んだ。芽の生育は良好で、種網として使用できないものはほとんどなかったが、網単位、枠単位で成長とアオ(※1)の付着に差が見られた。成長とアオの付着の差は、装置に起因するとみられるため、これを改良することになった。この施設は、水位の調整が簡単であり、干出作業を省力化でき、網ずれも少なかったことから、施設の強化と改善を図り、浮流し育苗技術の確立を目指したいとする県水試の意気込みが述べられている。

2004(平成16)年7月発行の拓水573号の「ウチの漁協!」には、JF網干が紹介されている。これによると、網干でノリ養殖が本格化したのは、1926(大正15)年で、1931(昭和6)年には、県下のノリ生産量の80%を占めた。網干でノリ養殖が盛んに行われた理由は、海が遠浅で、河川からの豊かな栄養塩が流入することであったという。ノリ養殖が始まった当時の養殖方法は、笹などを竹ぼうきのように海に突き刺してノリを付着させる「垂直式笹ひび養殖法」で、敷設場所は遠浅の海に限られた。その後養殖方法は進化し、昭和初期には網ひび(ノリ網)を水平に張る「水平式網ひび養殖法(支柱養殖)」が、さらに昭和40年代には「浮流し養殖法」が開発された。養殖法の進化に伴って、県下ののり●●生産量が格段に増えたのである。

JF林崎では、1960(昭和35)年頃にノリ養殖を開始した。1970(昭和45)頃には基幹漁業となり、2000年代には兵庫一の生産量となった(2005(平成17)年時点)。林崎の特上のりは、高級のりとしてブランド化され、贈答用としても使われた。5~10名以上の協業経営体を作って「集団漁業管理」を行うことで、専門的で細かい生産管理が可能となり、ブランドのりが誕生したのである(拓水579号)。

森地区は、底曳網漁業と採貝漁業が主体であったが、「森といえばノリ」といわれるほど、ノリ養殖漁業が中心の漁協となった。また、浮流し養殖を県下で初めて行ったのはJF森の生産者であった。新しい養殖法に着目した組合員が成功に導き、それが、県下に広がったのである。さらに、ノリの色落ち対策として、2003(平成15)年から海底耕耘を実施した。定期的に実施している海底調査では、ウチムラサキなどの貝類が増えたことも報告された(拓水611号)。

 

(※1)「青」、「アオ」とは、アオノリの仲間の海藻を指す。ノリに混入すると、製品の価値が低下する。

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